こんにちは。
社会起業大学 事業統括の瀬田川です。
このブログでは、
私が学んだこと、経験したことの中から、
自分らしく社会に貢献する生き方・働き方を自ら作り出す
ヒントになる情報をお届けいたします。
今回は、
才能の磨き方
についてのお話です。
皆さんは、
自分の才能に自信があるほうですか?
ない方ですか?
僕は、、、
恥を忍んで本音を言うと両方です。(汗)
自分では結構いける方なんじゃないかという部分もあり、
例えば人から「結構文章うまいよね」とか言われると、あぁやっぱりそこそこいけるのかなと思ったりします。
じゃあ、積極的にブログを発信したり、何かのコンテストに応募したりするのかというとそこまではできません。
「やっぱり本当は才能が無かったらどうしよう?」
という思いが湧いてきて
結果が出なくてヘコむのが怖くなり、
結局なんだかんだ理由をつけて何もしないという選択をしてしまいます。
勝負しないことによって、才能があるという可能性を残しておいて、自分を安心させているわけです。
皆さんは、どうですか?
似たような経験ありますでしょうか?
無い方は正直羨ましいですが、
きっと才能をどんどん磨いていける方だと思います。
でも、もし少しでも僕と同じような経験がある方がいたら、
「虎狩り」
をしなければいけないかもしれません。
「山月記 (中島敦 青空文庫)」という本を読んだことがありますか?
僕が高校生の頃、
国語の教科書にこの内容が掲載されていて授業で読んだことがあります。
その読後感たるや…。
なんだかとても不快で苦々しい、
そして、何か今のままでいることが許されないような
急き立てられるような居心地の悪さ
を感じたのを覚えています。
このお話は、
李徴という非常に物知りで才能に溢れた若者がいたのですが、プライドが高く人となじまず、引きこもるようになり、詩人として名を立てようとするもうまくいかず。ついに発狂したと思ったら、虎になってしまった
という内容です。
少し不思議な話ですが、才能を磨くうえで非常に重要な教訓が語られています。
たまたま虎になった李徴に出くわしたかつての友人、袁さんに、人間の意識がまだ少し残っていた李徴は、せっかくだから自分の詩を書き残して欲しいといい、朗読を始めます。
その詩を聞いた袁さんは、
「なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか」
と感じます。
それを察した李徴は、
自らを嘲るようにしながら言いました。
———
人間であった時、おれは努めて人との交まじわりを避けた。
人々はおれをきょごうだ、尊大だといった。
実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。
もちろん、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはいわない。
しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。
おれは詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
かといって、又、おれは俗物の間に伍することも潔しとしなかった。
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。
己の珠にあらざることをおそれるがゆえに、
あえて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
(中略)
俺の場合、
この尊大な羞恥心が猛獣だった。
虎だったのだ。
———
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」
僕にとってこの言葉は、
耳が痛いというレベルを超えて、
みぞおちのあたりにズーンとくる言葉でした。
そして、「尊大な羞恥心」は、
人間の心に巣食う猛獣、虎であると…。
本当にそうだなと思います。
この虎に立ち向かわない限り、
自分の精神を、
自分の才能を、
自分の人生を、
乗っ取られてしまうのです。
だから、才能を磨きたかったら
「虎狩り」をする必要があります!
いざ、虎退治!!!
・・・・。
いやぁーでも、
虎、怖いなぁ…。
いや、行くしかない!!
あぁ、やっぱ怖いよ。
臆病な僕は、
こんな葛藤を抱え続ける気がします。
ただ大事なのは、
自分の中にある葛藤を否定するのではなく受け入れて、
それでも「イチ・ニノ・サン!」で一歩前に出る勇気を
少しずつつ持ち続けていくことなのかなと思います。
臆病者の皆さん、
一緒に「虎狩り」頑張りましょう!