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社会起業大学 学長の林 浩喜(はやし ひろき)です。
このROCKY通信では、僕が社会起業家の育成・支援に携わっている中での経験や僕自身の人生での学びや考えをシェアさせていただいています。
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今年も多くの著名人が亡くなった。その中で最も悲しかったのが平成の三四郎と呼ばれた柔道家古賀稔彦さんの死だ。3月24日、まだ53歳だった。柔道家という言葉がこれほど相応しい人はいない。競技者としての能力だけではなく、人格を併せ持つ人だけに与えられる称号だ。多くの著名な柔道選手の中でも1番好きだったのが古賀さんだ。理由は常に前に出る旺盛なファイティングスピリット、小柄ながらどんな相手であろうと一本を取りに行くスタイル、そして分かりやすい伝家の宝刀「一本背負い」。身長体格で一回り以上大きな外国人選手を担ぎ上げて叩き落とす一本背負いに、TVの前で何度も狂喜した。気がつくと自分も一緒に戦っていて、リビングの椅子をひっくり返したこともあった。バルセロナ五輪の2年前の1990年、体重が50キロ以上重く身長も30センチ近く高い王者小川直也に挑んだ無差別級決勝で、最後の最後まで小川を攻め続けた姿には感動と共感を覚えた。
その古賀さんが現役を引退し、古賀塾という柔道私塾を子供向けに作った。そして彼らに遺した言葉は「強い人よりも優しい人になりなさい」というものだった。この言葉を古賀が子供に語ったというのは本当に深い意味がある。
致命傷をおしてバルセロナ五輪で金メダルを獲った時の印象が強いので、天才でエリートと思われがちだが、その起伏の激しい個人史については自著「人は弱さを知り強くなる」を読んで知った。ここでは書き切れないほどのアップダウンに彩られた個人史なので割愛するが、間違いのない事実は異常なまでに勝利にこだわるアスリートだったということだ。そして屈辱や敗北をバネに前進し続けた柔道家だった。
中でも意外に知られていないエピソードは、バルセロナ前のソウル五輪での敗退だ。金確実と言われていたが、プレッシャーに負けてしまったそうだ。コーチに初めて「試合が怖い」と内心を吐露したそうだ。そして帰国後、TVで自らの敗戦を見ていて両親が観客席の応援者たちに頭を下げ続ける場面に気付き、深い悔恨と屈辱の念に襲われる。「負けるということはこんなにも悔しくて情けないものなのか」と。そして反省の末に得た教訓は、「コーチに授けられた戦略通りに動くのではなく、自分で考えて動けるようにならない限りオリンピックでは勝てない」というもの。バルセロナでは本来であれば出場不能な大怪我を10日前に負いながらも、ソウルの屈辱をバネに金メダルを勝ち取った。その後アトランタ五輪にも出場し、連覇が期待され決勝戦で優勢に進めながらラスト30秒を攻め切れずに判定を失った。古賀が負ける相手ではなかった。このまま判定でも勝てると油断したと述懐していた。勝負の世界は本当に厳しい。しかしこの敗戦の教訓は引退後に指導者となった時に生かされる。オリンピックは魔物であり、一瞬たりとも攻めの気持ちを失えば、勝つことは出来ないと後進たちに伝えて来た。指導者となった古賀は技術だけでなく心構え、姿勢も教えた。まさに柔道家たる所以だ。「戦う以上は金メダルを狙う覚悟を持て!」「負けても立ち直るために、負ける覚悟を持て!」と弟子たちに檄を飛ばした。
そして最後に今回のタイトルの発言「強い人よりも優しい人になりなさい」の発言となるのだが、これは文字通りに受け取ってはならない。誰よりも勝ちにこだわり、満身創痍で苛烈な勝負人生を送り続けてきた古賀がたどり着いた最後の境地だったからだ。単純に優しい人になればいいんだよ、と言っているわけではない。自らの才能を磨き、精一杯の努力をして、その過程で悔しさや悲しさも経験して、結果として人の心の痛みのわかる人間になりなさいという意味だと思う。
今回の東京五輪で2連覇を果たした大野将平がTVで言っていた。「講道学舎※に留学していた子供時代、引退後の古賀さんが何度も稽古をつけてくれた」と。「その大きさ、強さ、技に『世界』を感じることが出来た」と。「それが今の自分の礎となっている」と。そして「今度は自分が古賀さんから受けた恩を子供達に送らねばならないと思っている」と。やはり古賀さんは柔道家の中の柔道家だ。
※講道学舎東京世田谷区にあった柔道の名門私塾。多くの金メダリストが巣立った全寮制の塾で、古賀さんもここの出身。2015年に閉鎖。