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社会起業大学 学長の林 浩喜(はやし ひろき)です。
このROCKY通信では、僕が社会起業家の育成・支援に携わっている中での経験や僕自身の人生での学びや考えをシェアさせていただいています。
皆様の起業のお役に立てられましたら幸いです。
3年前の秋だった。肌寒い鶴岡市の加茂水族館を訪れた。一通り展示を見終わり、窓外の海景色を眺めつつ名物のクラゲ定食を館内レストランで食べていた時だった。向こうの席でミーティングが始まった。その中に一際存在感のある初老の男性がいた。直感でこの人が村上さんでは?と思い、席を立たれた際に思い切って話しかけてみた。やはりそうだった。ありがたいことに3時間近くお相手をして下さり、館内の舞台裏まで見せていただいた。そもそもこの水族館に興味を持ったのは、クラゲに的を絞った水族館が山形にありビジネス的にも大成功しているという噂を聞いていたからだった。ところがご本人から波乱万丈の人生(加茂水族館の激しい軌跡と一致)をお聞きし、ヒーローズジャーニーさながらの生き様にすっかり参ってしまった。「無法、掟破りと言われた男の一代記」という村上さんの自叙伝のタイトルの通りである。僕の生地小倉の英雄伝「無法松の一生」を地で行く苛烈な人生だ。
とてもではないが全ては書き切れないので苦難の歴史を中心に紹介する。最初の試練は、1967年(S42)にいきなり起きた市から庄内観光公社という第3セクターへの身売りである。水族館は繁盛していた中での理不尽な理由での売却。そして人材不足の中で27歳の若き村上さんはいきなり館長職を懇願される。そこがその後の半世紀に及ぶ茨の道の起点だ。この会社は無責任な寄り合い所帯だったらしく、4年後の1971年(S46)に破綻してしまう。全員解雇が言い渡され水族館の存続すら決まらない中で、水槽内の生き物の餌代や温度管理の経費も出ない。市民が善意の寄付をしてくれてなんとか糊口を凌いだそうだ。泣き面に蜂で両隣県で大型水族館が誕生し、客足はさらに落ちる。そして佐藤商事という地元出身者がオーナーである在京上場企業に経営が引き継がれ、約30年に渡り親会社となる。その間、苦しい経営の中から利益は吸い上げ続けられることになる。その後も自然災害でアシカやペンギンが高波にさらわれたり、ついに1982年(S57)にはその親会社から水族館の閉鎖を迫られる。それだけは何とか免れるが億単位の借金は水族館に被せられた。必死の経営は迷走にもつながった。人気のラッコを1頭1500万で買ってきたり、水族館とは関係ないアカゲ猿、ラスカル人気だったアライグマまで取り込んだが、うまくゆかなかった。
そして1997年(H9)、村上さんはついに倒産を覚悟した。経営者でも無いのに個人的にも銀行借り入れの担保に自宅を取られ、家族も崩壊の瀬戸際まで来ていた。いくら地域の水族館を守るのが社会課題といっても、もうとうに村上さんの忍耐は限界値を超えていた。そんなどん底の経営状況の中でクラゲとの出会いがあった。たまたまサンゴ礁の水槽で発見したクラゲの赤ちゃんを飼育して展示してみたところ、お客さんが大喜びするのを目の当たりにし、一筋の光を見る。翌年にはこれはもしかすると日本一のクラゲ展示、そして世界一のクラゲ水族館になることも可能かもしれないと直感する。
クラゲの展示を増やしてゆくだけではなく、アイデアを絞りに絞り話題を呼ぶためにあらゆる企画を打ち出す。その一つが「クラゲを食う会」の主催。メニューはクラゲしゃぶしゃぶ、クラゲ寿司、クラゲアイスからユニークなクラゲ饅頭にクラゲ羊羹。この企画が大当たりした。ちょうどその頃「クラゲの展示数が日本一の加茂水族館」となっており、そのコピーもフックとなってTV・新聞を問わず全国からメディア取材が。メニューは館内のレストランでも公開され、日本全国からお客が殺到した。
そこからは、紆余曲折を経ながらも急角度での来館者数増加となっていった。前回のロッキー通信に添付した来館者数グラフをご覧あれ。ボトムの年間9万人から25万人越えを実現し2012年(H 24)には過去最高の27万1千人を実現した。そのプロセスにおいては、願い続けた公営化(市による買い戻し)の実現、下村脩博士のオワンクラゲの発光物質発見によるノーベル化学賞受賞、業界最高峰の古賀賞受賞、映画「くらげとあの娘」上映、ギネスにおけるクラゲ展示数世界一認定、斉藤茂吉文化賞、さらには村上さんの市政功労賞受賞といったあらゆる追い風が味方した。そして2014年(H26)、職員全員の念願であったクラゲドリーム館のオープン。疾風怒濤の20年だった。
「物事の始まりは、意外と目立たない小さな成功から始まっていることが多い」と村上さんは語る。真剣勝負しているハングリーな人はそれに気付けるが、そうでない人にはそのチャンスが見えない。村上さんの言われる男の勲章とは「時の権力者におもねることなく、ペナルティ覚悟で同志のため、己のために実績を残すべく闘うこと」だと理解した。「決断力」、「度胸」といった言葉がその後に続く。利口で言われたことを実行する真面目な男では不可能を可能にはできないとも。今はコンプライアンス全盛の時代、もう村上さんのような人が世にでることは稀だろう。
ところで今回参照させて頂いた村上さんの回顧録には、ざっと数えても10回以上「神」という言葉が出てきている。高校時代の3年間を「キリスト教独立学園」という深い山間の特異で学園生活を送られたことに起因していると思われる。自由を与えられる代わりに、最低限の3つの規律があるのみ。厳しい自然の中でサバイバル生活を送った。それが村上さんの精神的な基盤となっているようだ。逃げない人生、貫く人生、きっと大いなる存在に導かれた生涯なのだろう。自分らしく、社会課題に取り組みビジネスでそれを実現したホンモノの社会起業家だと思った。
参考図書 「無法、掟破りと言われた男の一代記」村上龍男