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社会起業大学 学長の林 浩喜(はやし ひろき)です。
このROCKY通信では、僕が社会起業家の育成・支援に携わっている中での経験や僕自身の人生での学びや考えをシェアさせていただいています。
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先週、中島敦の「李陵」を取り上げたら、中国古典つながりで、なんだか無性に「杜子春」を読みたくなり再読した。芥川龍之介はたぶん僕が初めて文学との接点となった作品だったかもしれない。小学校の高学年だったと思う。一読してなぜかとても惹かれた。デカダンスの色濃い時代観の中での仙人との出会い、そして時間にしてほんの1時間くらいの間に杜子春にドラマチックな出来事が何度も起きる。実は仙人による幻覚なのだが。その結果として杜子春は多くを学び真の自分に到達する。
最初に読んで40年以上もたったが、いつの間にか芥川の作品の多くは童話だと決め付けていた。だから高校生になってからは殆ど読まなかった。しかし今回の読後感は異なるものだった。表現こそ童話的で子供目線でわかりやすいのだが、主題は極めて本質的であり大人こそ読むべき内容だというものだ。
杜子春は1400年昔の唐の時代の都、洛陽を舞台とした古譚で玄怪録、続玄怪録という古典をベースとして子供向けに書かれた寓話だ。主人公の杜子春は元々裕福な家の生まれだったにも関わらず浪費の限りを尽くした結果宿なしの身となり、洛陽の城壁の下で一人呆然としていた。そこを我眉山に住むという仙人鉄冠子と出会い、2度も不労で大金持ちになるチャンスを貰う。この辺りは聖書にある放蕩息子の説話にも通じている気がする。杜子春は豪遊の限りを尽くし手にした大金を3年で使い果たす。そして無一文となり再び洛陽の城壁下に佇む。これを2度も繰り返す。富貴な時は見知らぬ人々も友人となって宴会に現れてはお世辞を並べ立てた。しかし一旦無一文になると皆去ってゆき、通りすがりに挨拶すらされない関係となる。杜子春は人間の冷酷さや不条理そして弱さを悟ることとなる。そして3度目に仙人から大金をもらえるチャンスを持ちかけられた時には、自らの意思で断る。そして鉄冠子に代わりに仙術を教えてくれと頼み込み、受諾される。
伝授に際し、ただ1つだけ条件を付けられ、何があろうとも一言も発するなと言われる。峨嵋山高所の一枚岩に杜子春を一人残し、鉄冠子は去ってゆく。そして杜子春に次々と魔物が現れては話しかけられ、応じない杜子春に襲いかかる。巨大な虎や大蛇をやり過ごすと、今度はあらんばかりの豪雨、雷鳴、稲光が直撃したが、沈黙を通す。今度は開山以来峨嵋山に住み神となったという武将が現れ、話しかけられる。一切口を開かない杜子春に怒り狂った武将はついに刺し殺してしまう。杜子春から魂が抜け出て地獄に落ち、今度は閻魔大王と対面する。そして話しかけに応じない杜子春の眼前に馬と化した両親が現れ、閻魔大王に命じられた鬼に骨肉が裂けるまで鞭打たれた。瀕死の状態で母が言う。自分はどうなっても構わないから、大王がなんと言おうとも無理に口を開かなくてよい、と。杜子春はその母親の真心に打たれ、ついに「お母さん」と一言発してしまった。気がつくと杜子春はまた洛陽の城壁のたもとに戻って一人ぽつねんとしていた。そこに仙人鉄冠子がまた現れ、杜子春に問いかける。杜子春はお金も要らない、仙人にもなりたくないと答える。これからはただ真面目に正直に生きてゆくと清々しく宣言する。仙人も、もし瀕死の母親の前で一言も発しなかったらお前を殺していたと告白する。仙人の3度のレッスンを通じて、やっと「真の自分」を知り、「幸せの本質とは何か」を知ることとなる。ついに弱い自分と決別した瞬間だ。結末はそんな杜子春のために、仙人は里の一軒家と畑を贈る。
何と芥川が28歳の時の作品だ。早逝の天才とは彼のような人のことを言うのだろう。幻想的な世界観、ダイナミックな展開に引き込まれ、挿絵が無くとも心に情景がハッキリと浮かぶところも幼少時代に惹かれた理由だと思う。子供時代に心に浮かんだ絵と今回浮かんだ絵はそう変わらなかったのではと思うが、ラストの部分の解釈だけは異なるものだったと思う。