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社会起業大学 学長の林 浩喜(はやし ひろき)です。
このROCKY通信では、皆さんが、人生やビジネスのヒントとなるようなお話をさせていただければと思います。
皆さんのお役に立てましたら幸いです。
白洲文平さん
白洲次郎、白洲正子ご夫妻を知っている人は多いだろう。次郎さんは敗戦で卑屈になっていた日本人に喝を入れ、支配者であるアメリカGHQに1人立ち向かった硬骨漢。プリンシプルという言葉を日本人に紹介し、戦後政治の重責を担った。私生活では英国流カントリージェントルマンであり、町田の「武相荘」でのライフスタイルに憧れる人は今も多い。妻の正子さんは日本の文化、歴史を独自の審美眼で庶民に啓いた文筆家。なかでも小林秀雄や青山二郎といった天才肌の文化人の芸術論を分かりやすく我々に解説してくれたのは有難かった。
僕は白洲次郎さんから男の生き方を、正子さんからは特に古美術との付き合い方において影響を受けた。しかし今日はその白洲正子さんによる人物評のエッセイについて書きたい。それは「遊鬼」という本で、最終章には自らの亭主次郎さんについて書かれているのだが、その一節に次郎さんの父、白洲文平さんについてもしっかり触れている。そしてその箇所が強烈な記憶となって僕の中に残っているのだ。生き様と共にその見事な死に様に感動し、何度も読み返してきた。
往年の白洲夫妻@武相荘
そのエッセイの該当箇所をそのまま転記する。
「やがて金も仕事も失った父親(義父)は、阿蘇山の麓の荒涼とした畑の中に、六畳ひと間の掘立小屋を建て、たった一人で愛犬と共に暮らしていた。狩猟が好きだったから、毎日犬を連れて、山を歩いていたのである。その孤独な老人の姿を想うと同情に堪えないが、この世に生まれて、思う存分やりつくしたという諦観には達していたと思う。そうしたある日のこと、掃除のために近所の農家のおばさんが来てみると、ベッドの中で死んでおり、ベッドの下には棺桶が用意されていたという。」
なんたる孤高の末路。幾ばくかの寂寥感はあったとは思うが、文平さんは“MY WAY”を貫いたことと思う。これぞ無頼の男の人生だと思う。あまりに恰好よすぎる最期だ。何度読んでも胸に沁みる。また文章はこう続く。
「まことに天晴れな最期だと思うが、また一方からいえばわがまま勝手な生涯で、大酒飲みの上、大変な道楽者であった。だから家族はいつも辛いおもいを強いられていたのである。では、家族をぜんぜん顧みなかったかといえば、殆ど動物的とも言いたい程の愛情で、彼らをがんじがらめにし、自分の手元から離すのを嫌がった。次郎が英国に行く時などは、ひと悶着あったようである。子供が学校から帰るのが遅いと、はらはらおろおろし通しで、そういう顔を見せるのがいやで、猛獣のように家の内外をうろつき廻ったという。彼らが帰宅すると、自分が我慢した分だけ癇癪をおこして、雷が落ちたことはいうまでもない。そういう親父を次郎は嫌っていたが、その実、どこからどこまで親父にそっくりだったのである。」
白洲文平さんは明治期にハーバード大を卒業し、三井を経て起業し、綿の貿易で大成功し巨万の富を得たが1927年の世界大恐慌で破産したそうだ。その優しくも激しく豪放磊落な性格はしっかり次郎さんに引き継がれ、戦後政治の裏面史でも暗躍し、敗戦で腰砕けとなった日本人に喝を入れてくれた。しかしその強い個性、激しい気性から四面楚歌だったとも記されている。逸話にも事欠かない。
人生は一度きりだ。自分の信じる道を自由に生きた文平さんに敬意を表する。そして次郎さんにも。
「遊鬼」白洲正子 新潮社