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社会起業大学 学長の林 浩喜(はやし ひろき)です。
このROCKY通信では、皆さんが、人生やビジネスのヒントとなるようなお話をさせていただければと思います。
皆さんのお役に立てましたら幸いです。
友達100人できるかな♪
今朝、近所は小学校の入学式に向かう愛らしいおチビちゃんと若い夫婦の家族連れで明るく賑やかな空気で満たされていた。私立小の子たちは品の良い仕立ての制服に身を包み、少し誇らしげだ。公立小の子たちはランドセルに新品の黄色いカバー(1年生の目印でもある)をかけ、これまた何とも嬉しそうだ。ちょうど桜も満開だったので、皆さん立ち止まって各々写真を自撮りしている。せっかくのハレのシチュエーションなので、声掛けして5組ほどの家族のスマホ写真を撮ってあげた。みんな幸福感あふれる最高の表情をしていた。
近所の路地を歩きながら、自分の入学式はどうだったのだろう?と思いを巡らしてみた。まずは小学校。子供の足で片道1時間はかかる山口県のT小学校に入学した。さすがに入学式のことは覚えていないが、母と一緒だった。グランドに遊具がたくさんあってテンションが上がったのを覚えている。制服はブレザーっぽい上着に半ズボン。嬉しかった。ただ、黄色い丸帽子が子供心にダサく感じられていやだった。笑 先生は初老の厳しいT先生で少し怖かった。幼稚園の時によく歌っていた「1年生になったら、1年生になったら、友達100人できるかな♪」をやってやろうと張り切っていたのを覚えている。いまこの学校の校長は、高校時代の同級生だそうだ。
桜も祝福しているよ
中学は広島県のI中学に入学した。入学時の思い出は、とにかく詰襟の制服を着れるのが嬉しくて仕方なかった。家に届くのを今か今かと待ちわびていた。身長も伸び盛りだったので、ツーサイズくらい上を買わされてダボダボだったが、何度も鏡の前で試着した。よく制服次第で学校の入学偏差値が変わるという話を聞くが、子供達の気持ちはわかる気がする。入学式は一学年14クラスもあるマンモス校だったので、式はもの凄い人で溢れていた。その時も母と一緒だった。母は当時まだ33歳だった。
高校は山口県のT高校に入った。理数科という理系専門のコースだった。式には母が来た。革靴を初めて履いたのが大人気分で少し嬉しかったが、とくに式では感慨らしきものは無かった。式そのものよりも式直後の悪夢の出来事が強烈な記憶に残っている。そしてその悪夢がその後3年間続いた僕の黒歴史の序章になろうとは。式後の集合写真の撮影時のことだった。クラスメートたちは、雑談しながら撮影場所にゆっくり向かっていた。そこに体育教師のI先生が怒声をあげた。「おい特殊学級!お前ら何をダラダラしとるんじゃ!」そして7人が正門前に一列に正座させられ、まずは“ジャンピングビンタ”だ。それも往路7連発、復路7連発で。次に先生の履いていた革靴の先っちょで、みぞおちに直角蹴りの7連発。僕も含めみんなひっくり返って悶絶した。いやーアレには参ったな。人生で他人から受けた体罰の最初で最後だ。大事な革靴は正座で傷だらけになるし、通行人や他クラスの生徒の手前ハズカシイし、踏んだり蹴ったりだ。どうもI先生は、毎年理数科の生徒達を目の敵にし、体罰を与えることを常としていたようだ。時が今なら、免職ものだろう。その後クラスに引き上げて来て気を取り直して新しい仲間と話し込んだ。彼らがとても大人に感じられた。「林君は行きたい大学は決まっちょるの?」「大学では何の勉強したいん?」から「林はどこまで〇ッたことあるん?」まで。笑
大学の入学式はやっと「自由」が手に入るという喜びだけだった。K大学の入学式は全学部の学生が集結していたので、大きなコンサートホールを借りて行われた。僕は私服だったが、スーツで来ている男女も多かった。式には今は亡き親父が来た。その手の行事に来てくれたのは初めてだった。式後に高級店で美味しいビフテキをご馳走してくれた。ヒレ肉を炭火で焼いた上モノだった。期待通りの進学をしなかったにもかかわらず、親父が喜んでくれているのが伝わってきて嬉しかった。
昨年末に僕は還暦を迎えてしまったが、還暦とは暦の上で人生が一巡して振出しに戻る、つまりもう一度赤ん坊になって人生をスタートする意味があるという。考えようによっては第二人生の入学式だな、などと歩きながらつらつらと考えていた。今朝お裾分けいただいた幸福感を大事に今週を過ごしたい。
パパママ、ぼく幸せだよ