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社会起業大学 学長の林 浩喜(はやし ひろき)です。
このROCKY通信では、皆さんが、人生やビジネスのヒントとなるようなお話をさせていただければと思います。
皆さんのお役に立てましたら幸いです。
先週、50年来の恩返しを果たす事が出来た。と言っても、都合のいい解釈なのだが。笑
出張の新幹線移動は異常な混み具合だった。のぞみ号は200%以上の乗車率だったと思う。帰省ラッシュに台風回避や再燃したインバウンド旅行が後押ししたのが原因だ。いつも自由席しか乗らないが、ここまで混んだ記憶はない。
通路や車輌の継ぎ目は東京の通勤ラッシュ時と同じ状態。車輌の継ぎ目に立っていた4時間以上、隣人とは体が密着し、誰かのスーツケースが足にゴリゴリ当たり痛かった。荷物棚は満杯で、通路には人だけでなくスーツケースがランダムに置かれた。そこに乳母車も混じった。
それによりどんな派生問題が生じたか?遅延だ。駅に到着するたびに立ち客の一部が降車客と共にホームに降り、新たな乗車客とともに戻るというオペレーション。しかも車内にJRの車掌はおらず、乗客同士が大声を掛け合いながら乗り切った。目的地の新山口駅に降り立った時、さすがにクタクタになっていた。
さて本論に。7歳の夏だった。父が3歳の弟と共に岩国の名所、錦帯橋のたもとの錦川で手漕ぎボートに乗せてくれた。きっと兄弟で父にせがんだのだろう。「お父さんもっと向こうに行こう」と。それに応えようとしてくれた父。気がつくと本流に乗ってしまっていた。速いスピードで下流に向かって流されてゆく。弟は怖くなり大泣きを始めた。どんどん流されてゆき錦帯橋が随分遠くなった。
弟の泣き声が聞こえたのか、白人2人が走ってきて川に飛び込んだ。ボートを体ごと抑えて陸に誘導してくれた。米軍岩国基地の若き兵隊だった。丘に上がり、父がひたすらお礼を伝えていた。一連の光景を今もはっきり覚えている。この体験のことは数年に一度、何かのタイミングで思い出す。
東京駅で乗車し、幸運にも座ることができた。品川を出たあたりでトイレに行った。車輌間に小さな未就学児らしき可愛らしい外国人姉妹がいた。可哀相に通路に座って辛そうにしている。彼女らの目に入るのは至近距離の大人の足だけだ。妹の方は半ベソに近い。父親が側に立っていたが、困惑していた。大きなスーツケースには岩国と漢字で書かれたステッカーが貼ってあった。直感的に岩国基地の人だと思った。
僕は自分の席に戻ったのだが、あの小さな白人姉妹のことがどうにも気になって仕方ない。小田原を通過したあたりで、意を決して通路を掻き分け掻き分けその家族のもとに戻った。やはりチビちゃんたちはさらに立て込んだ通路に座ったまま列車の揺れに任せるようにフラフラしていた。お父さんに話しかけてみた。やはり岩国基地の人だった。
俺の席が1つありますから、娘さん2人でどうにか座れませんか?と聞くと喜んでくれた。また偶然にもその席の反対側に2人席を1人で占拠している人がいたので、事情を説明し席を空けてもらい、小さなレディ2人の席を確保することができた。ホッとした。同時にあの錦川の50年前の出来事がフラッシュバックした。あの時の2人の青年米兵の勇気ある救出に、小さな恩返しが出来た気がした。きっとあの2人の青年兵への感謝が、半世紀間ずっと心に残っていたのだろう。
その後お父さんの顔はなぜか気恥ずかしくて見ることができなかったが、お嬢ちゃんは何度か席から振り返ってアイコンタクトを取ってくれ、お互いにスマイルした。彼女らは広島駅で下車した。家族で嬉しそうに手をつないでホームを歩いてゆくのが横目に見えた。なんとも言えぬ幸せな気持ちになった。