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【 ROCKY通信 】第134回 ドキュメンタリー映画「AKAI」 -赤井英和 死の淵からの生還-

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社会起業大学 学長の林 浩喜(はやし ひろき)です。
 

このROCKY通信では、僕が社会起業家の育成・支援に携わっている中での経験や僕自身の人生での学びや考えをシェアさせていただいています。
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【 ROCKY通信 】第134回
ドキュメンタリー映画「AKAI」 -赤井英和 死の淵からの生還-

1982年 関西では無敵の強さを誇った赤井

 

ドキュメンタリー映画「AKAI」をロードショーで観た。数年ぶりの映画館、それもボクサーとしての現役時代をよく知っている赤井英和の映画。同時代の関西を生きた者としてノスタルジックな気持ちも喚起させられた良いドキュメンタリーフィルムだった。

 

神戸に暮らしていた大学時代、今は俳優として有名な赤井英和のプロボクサー時代の試合をいつもリアルタイムでTV観戦していた。中でも強烈な記憶として残っている試合が2つある。僕が1回生そして3回生の時の試合だ。

最初は赤井がブルース・カリーの世界タイトルに挑戦した時。当時のバイト先の三宮のレストランでは、試合の数日前から赤井のタイトル戦の話題で持ちきりだった。店長もバイトも仕事どころでは無いという感じで浮き足立っていた。皆がフォークヒーロー赤井のタイトル奪取を心から望んでいた。派手な喧嘩スタイルのボクシングで、人気は関西初の世界チャンプ渡辺二郎を凌いでいた。だが僕には格下相手に試合を重ねてKO記録を伸ばした人という印象で、ボクサーとしてはそれほど評価していなかった。

世界戦は赤井自ら在籍する近畿大学の体育館で、1万3千人の熱狂的ファンを集めて行われた。7月7日の試合だから7回でKOすると予言するが、健闘むなしく皮肉にも7回KO負け。

2度目は赤井のラストファイトとなる大和田正春との試合。世界戦から2年後、世界再挑戦の前哨戦として組まれた彼のホーム会場、大阪府立体育館での試合。咬ませ犬として大阪に呼ばれた大和田に、ひたすら打たれ続けた末に7回KO負け。試合直後に意識不明となり富永脳外科に救急搬送され緊急開頭手術。脳挫傷で死線をさまよう赤井。関西のキー局はひたすら赤井のニュースを流し続けた。

 

1983年 敗れはしたが王者カリーを追い詰めた世界戦
1985年 死線をさまようことになった大和田戦 

 

映画「AKAI」は、そんな赤井の半生を実の息子であり昨年プロボクサーになった英五郎氏が監督・編集したドキュメンタリーフィルム。赤井の現役時代の映像を中心にストーリーは進み、途中に英五郎によるインタビューが挿入される展開。

ガッチリした上半身、小さな頭に細く長い四肢。赤井は日本人には珍しい理想的なボクサー体型だった。そして人を笑わせるのが得意だった明るいキャラ。またなぜかイケメンとも言われていた。笑 しかし、映画で赤井の過去の試合を見ていて思ったのだが、もう赤井のような破天荒なボクサーは生まれないだろう。現在は世界のボクシング団体が徹底した健康危機管理を実施しているからだ。

赤井はジャブというよりもストレートのような強い左を武器とした。それ以外は大振りの強烈なド突きパンチ。ひたすら前進して相手を殴り倒すという実に分かりやすいボクシング。その勢いで12連続KOの日本記録を達成した。その頃よく赤井とスパーリングしていた3階級上の東洋ミドル級チャンプがよく話してくれた。「赤井の左ジャブは物干し竿でド突かれるように痛く、フックは木製バットで殴られるような衝撃だ」と。木製か...それは痛いだろうな 笑 

 

赤井の地元あいりん地区(釜ヶ崎)の労働者達は、そんな赤井に熱狂した。不遇な自らの境涯を、赤井の世界奪取に託した。赤井はそんなおっちゃん達の希望の星だったのだ。試合会場に入れなかった彼らの多くは大阪府立体育館の周囲を取り囲み、毎度のように暴れたそうだ。笑

「浪速のロッキー」と呼ばれた赤井は、ボクシングという枠のみには収まらない関西大衆のフォークヒーローだったのだ。阪神が熱狂的な優勝を飾る5年近く前の話である。また次なる希望の星、辰吉丈一郎がリングに上がるまであと10年を待たねばならなかった。

 

一命を取り留めたが、ろれつの回らない退院直後の赤井

 

大和田戦後、生存率20%と言われた手術をかいくぐり、死の淵から生還した。映画の中では頭蓋骨にドリルで穴を開け、チェンソーでそれを割る音が本当に痛々しかった。頭皮は47針縫われた。

赤井の人生の中で底辺となった引退後の3年間。幸いにも母校近畿大学でのボクシングコーチという職を得たが、当時はひたすら酒を飲んでいたと述懐する。その気持ちは痛いほどよく分かる。精神的に追い詰められる苦しい日々の中で、出版社から自叙伝の執筆依頼が来て「どついたるねん」という作品が世に出る。そしてそれが1988年に映画化された。阪本順治という若手の監督との出会い。これが大ヒットした。テント上映に近い形で全国を巡る。 

当時24歳の僕も東京のどこかのミニシアターで観た。人情モノのドタバタ映画だが、赤井らしい一徹さ、武骨さがシナリオにマッチしていて大いに楽しめた。自分の大好きな原田芳雄が脇を固めていたのも嬉しかった。そしてここから俳優赤井英和のサクセスストーリーが始まる。人生の転機。本人もどこかで言っていたが、「あの負け(大和田戦)があって、この道(俳優業)が拓けた」と。まさに塞翁が馬である。自分を貫いた、筋を通した人間は、仮に躓きがあっても誰かがどこかで見守っているのだと思う。

 

赤井の所属していたグリーンツダジムに20年くらい前に行ったことがある。正直ビックリした。天下茶屋の商店街外れの小屋のような建物。リングは正規サイズの半分くらいしかなかった。スター選手が去り、創設者も去ったジムには人影も無かった。ここにあの赤井や井岡がいたのかと、とても想像がつかなかった。そして今回の映画の準主役とも言える名トレーナー、エディ・タウンゼントもその後この世を去った。全ては諸行無常だ。(エディさんについては、また別の機会に書きたい)

 

高1の時だったと思う。東京の角海老ジムを見学に訪れた際、ジムの責任者がシャドーボクシングをしていた褐色の黒人風ボクサーを指差して「あの子はとんでもない才能あるんだよ」と言った。今にして思えば、あれは間違いなく大和田正春だった。赤井と戦った時はウェルター級であったが、当時はフェザーくらいの細い選手だった。軽やかなステップワーク、スナッピーなジャブが、今も記憶にある。

 

「AKAI」を監督した長男・赤井英五郎氏と

 

 

ps

なぜこのタイミングで赤井のドキュメンタリーフィルムなのか…それも長男の手による

映画開始を待っている時に少し不安がよぎったが、赤井の元気そうな姿を見てホッとした


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