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社会起業大学 学長の林 浩喜(はやし ひろき)です。
このROCKY通信では、僕が社会起業家の育成・支援に携わっている中での経験や僕自身の人生での学びや考えをシェアさせていただいています。
皆様の起業のお役に立てられましたら幸いです。
僕には第3のおばあちゃんと言える人がいた。血縁はないけどいつも肉親以上に親切にしてくれた。一昨年、102歳でご帰天された。この大正生まれのおばあちゃんは、もし今生きておられたら僕は社会起業家と呼びたい人だ。
世界が最悪の東西冷戦下の1960年(昭和35年)、第三次世界大戦すなわち世界が核戦争の恐怖の只中にあった時代、このおばあちゃんは博多で「ツンドラ」という名のロシア料理のレストランを始めた。そしておばあちゃんが産んだツンドラは、コロナ禍の中、本当に惜しまれつつ60年の歴史を閉じた。今回、2回にわたり僕の第3のおばあちゃん、徳永初美さんの話をしたい。
この記事を書くことになったのは、ロシア・ウクライナの戦局に意識が向く中、先週、従姉妹が初美さん特製レシピのピロシキを送ってくれたからだ(従姉妹は初美さんの実孫)。9歳の時だったと思う。初めてツンドラに家族で招待していただき、ロシア料理なるものを食し感動したのを覚えている。
しかしなぜか今回、僕は料理以上にいつも優しく接してくれた初美さんのことを思い出していた。その頃から僕が40代になるまで、ずっと心温まるようなお付き合いをしてもらった。博多天神のツンドラに行くと、いつも初美さんがいた。いつも身ぎれいにされていて、素敵なおばあちゃんだった。
苦労して店を軌道に乗せただけあり、店にはおばあちゃんのホスピタリティ、明るいオーラが隅々まで行きわっていた。店に行くといつも「ようきんしゃったね」と言いつつ、奥の大テーブルの席に案内してくれた。ロシア料理を頂きつつ、ひとしきり雑談をした後、いつも帰り際にはお小遣いをくれた。大事にされている気がして、子供心にとても嬉しかった。
30代を過ぎて40も近い頃、僕が以前の事業で忙しく全国を飛び回っていた時、博多にも5店舗出していた時期があり、半年に一度は出張していた。その時に言われた。「ヒロキちゃんは成功者になりんしゃったね」と。自分はそんな意識は微塵もなかったので意外だったが、初美さんに認めてもらえたことがとても嬉しかった。
そして、僕が初めて娘を授かった時、赤ちゃんに向かって「愛らしかね、美しかね」と言われたのを鮮明に覚えている。いつもどんな時もポジティブで、会っただけで人に元気をくれる人だった。
また横ズレしてしまった。初美さんは、1960年(昭和35年)にロシアレストランという当時では非常に差別化された業態を始められた。現在も冷戦の翳りに向かいつつあるが、当時のそれは一触即発の核戦争の危機下にあり、その緊張感は我が事のようだったのを覚えている。
そしてその極限の状況下で我々西側国家にとり悪の象徴だったロシアの文化を日本で広めた。その功績は本当に大きかったと思う。敵国も文化交流となればまた別で、ロシア領事館の人々も「世界一のピロシキ」と太鼓版を押してくれたそうである。
社起大の中心概念「SECメソッド」を使って初美さんを解説すれば、「社会課題」は極度の緊張下にあり核戦争が現実化しそうだった東西冷戦という暗黒の政治・経済的時代背景。「自分らしさ」は当時稀有であった女性の起業家精神。そして「ビジネス」は非常に差別化されたコンセプトのレストラン業態。
あの時代背景でロシア料理店を出すというのは、差別化されすぎて市場自体が存在しなかったのではないか。アゲンストの社会背景の只中で、まさにゼロから市場を掘り起こす苦難の道を選ばれたのだ。僕の根っこのところで初美さんの「起業家精神」は間違いなく影響を与えられたと思う。
そして「動けばわかる」を地で行く驚異の行動力。
それについて来週続編で書かせてもらうこととする。
乞うご期待!