読者の皆さん、新年あけましておめでとうございます
昨年はROCKY通信を読んで下さり、ありがとうございました
正月はお屠蘇でも召し上がって、少しゆっくりしてください

希望
去年は国内初の女性首相が生まれ、大きな変化への一歩となり僕自身は希望を感じることができた年だった。国際的には中東でまた新たな戦争が勃発し、なんでこうなるの?と思ったのだが、東アジアも複数国家間で緊張が高まってきており、対岸の火事とは言えない状況だ。各国の利己的な主張が続けば、今年も世界情勢に希望をなかなか持てない。
今日のテーマは希望だ。河合隼雄氏の文章に「幸福の条件」というものがある。以前読んだ時はあまりピンと来なかったが、今はじわっと来ている。物故された京大の名誉教授で教育学博士、心理学者であった。ユング心理学の第一人者だったそうだ。
その文章をそのまま転記する。
「人間が幸福であると感じるための条件はいろいろあるだろうが、私は最近、
▽将来に対して希望がもてる
▽自分を超える存在とつながっている、あるいは支えられていると感じることができる
という二点が実に重要であると思うようになった。」

書初め 希望
希望、読んでも聞いても心か軽くなり、明るくなり、未来志向にさせてくれる言葉だ。漢字でいうと、希望の希は望むこと、望も文字通り望むこと。つまりのぞむというコトバの強調表現なのだ。だから優しい字面ながらも響く。書初めの定番なのもむべなるかな。英語ではhope, wish, aspiration等いくつかの類似単語があるが、やはり語感的にはHopeが一番しっくりくる。フランス語のEspoirっていうのも実にいい。言語によらず語感や字面だけでもとても幸せな感情を抱かせてくれる。
おっと脇逸れしてしまった。年の瀬からつらつらと考えてみたのは、希望はいかにしてもたらされるのか?という点。周りから与えられるものなのか、自分で創り出すものなのか?河合氏の例では当時凄まじい経済成長を遂げていた中国をあげ、今は貧しくとも必ず明日はもっとよくなるという国を挙げてのある種妄信的な気勢。それは外からもたらされる希望だが、僕も40年前に近いものを体験した。社会人になったばかりの頃の日本のバブル経済だ。昭和平成を跨いだ悲しき最後の打ち上げ花火。全国民が完全に狂っていたけど楽しかった。何も考えなくてもどんどんGDPや企業収益が伸びるのだから当然だ。当時は経済で世界制覇することを真剣に信じている日本人がたくさんいた。それも希望といえば希望だが、あまりに利己的な動機だった。自分も含め。だから残人生は「社会性のある希望」に生きたい。
さて一般的に日本では希望は与えられるものという他力本願の前提がある気がする。河合氏の論調にも少しだけそういうものを感じた。僕は希望は個人が自身で創り出すものと思っている。そして実践もして来た。希望はたとえどん底にあっても自分で創り出せる。福沢諭吉の言う「独立自尊」もそうではなかろうか。良き時も悪しき時も、希望の具体的な形である夢や目標に向かって自らの二足で立って歩いてゆくという。起業家はその分かりやすい例かもしれない。希望の御旗を高く掲げ、カラッと明るく前進。それが束となった時、国家も大きな力を発揮するのだと思う。ミクロ経済とマクロ経済の連動。与えられる希望を期待して待ち続けられるほど人生は長くない。
第2の河合氏の視点である自分を超える存在とつながっているという話だが、河合氏は中国を再度引き合いに出し、今の中国は無宗教に近いけれど、血縁大家族という関係性がその役割を果たしているという。僕自身は信仰の話だと解釈したい。厳しい現世で希望を持って生きるには、大いなる存在に守られている感覚が欲しいし、来世を希望の地とすることが出来れば頑張れる。
皆さん、大きな希望を自創しよう!
どんな状況であれ、希望とともに生きよう!
そして遠く高くにその御旗を掲げよう!
できるかな?とかできないかも、とかそういう問題ではない。
希望を他人任せにするのでは、一度の人生あまりに勿体ないと思いませんか?
ROCKY 2026元旦
付記①旧約聖書にある預言者イザヤの言葉。アフガニスタンの人々に希望を与え、実現した社会起業家中村哲さんのことを思い出す。
「先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を荒れ地に川を置く。」
付記②3年前に帰天した父の手書きメモが書斎から出て来た。有名なサミュエル・ウルマンの青春という詩の一部。
「人は希望ある限り若く、失望と共に老ゆる」