・自分の心を開くことで相手も心を開くことができ、相互理解が驚異的に促進する
・開いた自分の心に耳を傾けることで内省できる
友人が言っていたことに、「大ナタを振るうことに恐怖がある」というものがあった。
確かに。自分をさらけ出すことについて怖い気持ちは、ある。
私も今だからなんとなく言えるけど、
「本当の自分を評価されることが怖い」
「馬鹿にされることが怖い」
「”みんなに””良い人”だと思われていたい」
と、何らかの意思決定をするときにこれらの気持ちがもたげてくる。
職場においても、そういった言動が落ち着いていると評価される傾向は正直言って強い。
ある程度グループをまとめる立場、また部門長ないしは役員クラスと話す機会が出てくる立場になってきて、
言いたいことがなかなか言えない(と勝手に思い込んでいた。本当はそうではない、自分が言いたいことを言えばいいし、自分を感じたことをぶつければいいである。)機会が増えていた。
その機会にどっぷりつかり、それが”普通”になると、何が自分の言いたいことか分からなくなる。
その症状がさらに進行すると、自分が「本当に」何を感じているのか分からなくなる。
でも、社会起業大学にて仲間と活動し続けている今、違う認知をしている。
例えば、
評価なんて気にしていられない
馬鹿にされない方が良いとは思うが馬鹿にされてもいい
良い人だと思われるに越したことはないがそうでなくてもいい
極論すれば、数人でいい、本当に本音で話せる友人が10人中1人、2人と増えれば、他の8人とは無関係に終わってもいい、と思うようになってきた。
そう思えるようになると肩の力がすっと抜けた感じがして、以前よりかなり自分をオープンに出来るようになってきた。
自分をオープンにするための手法の一つとしては、ある種「筋トレ」をすることだと思う。
つまり、「本当の自分を評価されることが怖い」といった恐怖を受け入れながら、自分をオープンにすることを継続するのである。
体験したことを紹介したい。やはり、自分をオープンにする、ということを実践させてくれた場が良かった。
参加するメンバーの間に利害がなく、互いにサポートしあおうという暗黙の了解があり、何をオープンにしても受け止めてくれる。
勿論、厳しい指摘もときにはあるかもしれないが、何より相手を思って、または自分を思ってくれての指摘だと思えば受け止めることができる。
もう一つの実践は、運動である。
社会起業大学の中ではよいが、その外で自分をオープンにすると、勿論、良いレスポンスもあるのだが、受け入れがたいレスポンスもないわけではない。
そこで、運動し、運動することで受け入れた自分に自信をつけ、相手に多少何を言われても動じなくするのである。
自分をオープンにすると何がいいか?
相手にも同じ認知があることは前提にはなるが、相手もオープンになり、共有している時間はそれほど長くはないものの表面的な話ではなく身の上話をできるようになる。
本当は何をしたいのか、何をしたくないのか、何に苦しんでいるのか、通常では表現できないことを共有できるようになる。その結果、相手のことが良くわかるようになる。
さらに、自分の感情も良く分かるようになる。
まず、表現するというプロセスを経るし、さらにその表現したものに対して相手が応じてくれることで再度自分に言い聞かせるというプロセスも経る。
そのときに自分がどう感じるか。ここを内省することが自分をより理解することに繋がる。
自分の心を開くということに動機を感じている人は恐らく少ないだろう。
ただ、自分の心を開くことが出来ていないという認知はできるのではないだろうか。
そうであれば、試してみる価値はあると思う。