今回の社会起業家インタビューは、株式会社ジャパン・ベースボール・マーケティング代表取締役 村山哲二様です。
群馬県、新潟県、長野県、富山県、石川県、福井県の6県で行われている野球の独立リーグのお話を中心に、インタビューをしながら涙をこらえる程、感動的なお話を頂きました。
株式会社ジャパン・ベースボール・マーケティング
代表取締役 村山哲二氏
地域の活性化に、野球ビジネスで貢献する!<プロフィール> 1964年9月19日新潟県生まれ 新潟県柏崎市高柳町岡野町(旧高柳町)出身
高柳中学校野球部 県大会ベスト4
県立柏崎高等学校野球部 秋季大会ベスト4、夏季大会3回戦
駒沢大学北海道教養部 準硬式野球部主将
北海道大会優勝、全国大会出場
平成18年3月末まで、新潟県内の広告代理店に勤務。アルビレックス新潟の広告担当としてJ1昇格、優勝パレード、試合運営プロモーション等の作業を行い、プロスポーツを通じた地域の活性化を現場で体験する。
大学の先輩である石毛氏との出会いによって、野球事業の起業を決意した。都合が許す限り、アウェイにも参戦するアルビレックス新潟のサポーターでもある。平成18年7月、株式会社ジャパン・ベースボール・マーケティングを設立。
Q.25歳時の興味関心、自分の好きだったことは何ですか?
両親/野球/営業
●両親
僕は3代続けて代々「教育者」の家系なんですね。当たり前なんですけど、大学で野球をやっていて、将来は「野球の教育者になりたい」と考えていたんです。 それは何故かというと、父親が高校で体育の教師をしていて、ちょうどその頃バレーボール部の監督で、盆暮れ正月になるとOBたちが酒をかついでくる(笑)親父が生徒たちからものすごくリスペクトされていたのが印象に残っていて、先生、先生ってくるわけですよ。
それを見ていたので、僕は将来教育者になろうって決めていて、それに対して2年教員採用試験を受けて破れた時期だったんですね。夢破れた時期だった、それが23歳。
母親は30年間田舎でずっと保母をやってきた。両親が歩んできた道っていうのが僕の目標みたいなところが根っこにあるんです。そのときに、親父たちの想いもおじいちゃんおばあちゃんの想いも含めて、僕は教師になれなかったんで、そこのところですごいコンプレックスを持っていたんですね。
追っかけていたんだけど、それがかなわなかった。残念な想いがありましたね、25歳は。両親を追いかけていたなあ、と。今でもそうですけど。
僕のサラリーマンのスタート地点はBMWだったんです。クルマが大好きで、今でもドイツのクルマしか乗らないって決めていますけど(笑) 教員になるのを諦めて、中途採用で入ったんです。
ここでふんぎりがついた、というか、僕は社会科の教師を目指していたんですけど、勉強が嫌いだったんで、「勉強が嫌いな者が教師になっちゃいけない。努力する才能がないな」って思って、諦めがついたんです。体育の先生だったらもうちょっと頑張っていたかもしれないけど(笑)
Q.大学のときに野球をされていますが、その道に進もうというのはありましたか?
なかったですね。というのも、そういう環境になかった。新潟の県立で「プロ」という人が周りにもいなかったし、“準硬式野球部”という、硬式でも軟式でもないチームだったし、「駒沢大学の野球部に入れなかった人が入る場所」みたいなところだったんですよ、“準硬式”って。もちろん、体育会系でやっていたんですけど、レベルも圧倒的に違う。
僕は、駒沢は駒沢大学なんだけど、2年間、北海道教養部というところを選択して入ったんです。東京が嫌いで、東京で暮らす気がまったくなかったんで、地方の大学ばっかり受けてたんですね。駒沢も2年間北海道に行けるから受けたんです。で、駒沢大学北海道教養部というところは、硬式野球部がなくて、準硬式野球部しかなかったんです。
僕は野球じゃなくて、教員がベースにあるから、「似非(えせ)野球人」なんですよ(笑)
Q.25歳時の興味・関心のあった社会の問題・課題は何ですか?
営業成績/広告/マーケティング
●広告/営業成績/マーケティング
広告、営業成績、マーケティングがセットになるんですけど、7年間で11回海外旅行に行ってるんです。つまり、全部報償旅行です。ヨーロッパ1周も行きました。それくらい、成績がよかったんですよ。そのときに、なんで自分はクルマが一生懸命売れるんだろうって考えたときに、自分に「パーソナルマーケティング」というのがあったんですよ。どこをどういう風にアプローチをかけると、いかに楽に効率的にモノが売れるか、というのを考えた。
新潟でどこにアプローチすればBMWを効率的に売れるかを考えたときに、建設業界と歯科医師会だったんですよ。新潟県の建設業協会と歯科医師会のドンに、3年くらいず~っと通って、顔を覚えてもらって、そこでぼんっ!と2つ押さえたわけですよ。そしたら、新潟の人たちが、ドンがBMWに乗り換えたわけだから、全部下請けじゃないですか、すーっとみんな買い替えた。
これがたぶんマーケティングの根っこだな、ってその時思ったんです。一番大切なことは、一番影響力のある人はハードルが高いわけですよね。そこのところに行ったほうが一番近道だって気付いたんですよ。どんなに辛くても、一番トップのところに行かないと営業成績って上がらないと自分の中でパーソナルマーケティングを感じたんですよね。
モノが売れる仕組みとか、紹介をもらえるスキームとか、自分の中にこういうルーティンワークがあって、そこのところに行くとだいたいどれくらいの紹介がもらえるかっていうことがわかるようになってきたんですよ。そうじゃないと、1年間で75台、月に7台も売れないですよ。ほかの人が月平均2台ですから。 それが25歳くらいのときに、自分で一番わかりかけた時期だったなあ・・・確立出来たのは30歳くらいですけど、そのときの礎が出来たのがこの時期だったんじゃないですかね。
クルマを売りに行くっていう感覚はなかったですね。この人とこの人に話を聞きに行く、もちろん営業成績にしたいっていう想いはあったんですけど、事業をやっていらっしゃるオーナーさんとかの話を聞いているだけで、自分の生き方の参考になるんじゃないかなって。だから3年という時間がかかっても楽しかったんでしょうね、きっと。
Q.32歳のときにキャリアが一転しますが、それはどういう転換があったんですか?
簡単に言うと、1番だったんですよ。セールスだけじゃなくて、所長になったんですけど、2年連続顧客満足度No.1に選ばれたんですよ。すんごく楽しかったんですけど、クルマを売ることに限界があったんですね、自分の気持ちに。要は、1番になっちゃったんで、もっと高い山が見たいなと思ったんです。あとは、もっとレベルの高いところで、自分の営業成績を試してみたいって思ったんです。
その時、電通が分社化して、“地域の電通”になって、電通から電通東日本に分社化したんです。そのときに、電通の新潟支社って3割くらいの人が本社に戻ったんですよ。それで、4年間にわたって2人ずつ欠員が出たので、そのときに僕は応募して入社したんです。
広告ってものに興味があったし、マーケティングというところでも自分の中でモノの売り方っていうものに意識があったから、どうせやるんだったら、自分の実力を試すフィールドはもっと高いものがいいなと思ったんですよ。つまり、電通の営業マンとして、モノを売るとか広告を売るという作業の中で僕は戦いたいなあと思ったんです。
Q.社会問題や問題意識が芽生えたきっかけは何ですか?
アルビレックス新潟に恋をしてしまったことです、広告で(笑)
電通に入ってすぐに担当したのですが、当時(1996年)アルビレックス新潟というサッカーチームは、出来たばっかりで新潟でまったく認知度がなかったんです。
池田さん(アルビレックス新潟会長)は、自社でハウスエージェンシー(専属広告代理店)を持っていて、アルビレックス新潟の広告も全部そこで持っていました。僕は電通の人間だったんですけど、月々の取り扱いが5万円程度しかなかく、僕はまったく興味なかったんですよ。
それが、仕事で見ているうちに気になる選手が出てきたんですね。スポーツチームやスポーツ選手のファンになる心理を僕が身をもって体験したわけです。あ、こうやってファンになるんだと。必ずパーソナルから入る。そのうち、彼を追いかけるうちに、チームのことが気になりだすんですね。
そして、見てるうちに半年くらいしたらゴール裏にいた(爆笑)
そのときに、地域のプロスポーツというものが地域を劇的に活性化する力を持っているって、僕自身がすごく感動しました。そこがもうスイッチですね、人生におけるものすごい大きなパラダイムシフトが起きて、そこで変わりました。
愛してる新潟というサポーターズソングがあるんですけど、それを歌っているときに
「あ、アルビレックス新潟っていうサッカーチームを応援しているんじゃないんだ」
ってことに気付いたんですよね。アルビレックス新潟っていうサッカーチームを応援しているフリをして、自分自身を応援しているんだって思ったんです。そこで初めてわかったんですよ。
「新潟を愛してる」、つまり「自分を愛してる」んですよね。
新潟っていう地域だったり、そこで暮らしている人々だったり、そこに住んでいる自分自身をそこで肯定したいんですよ。地域に対しての想いだとか地域に対しての愛だとか、そういうところを一番自分自身に感じさせてくれるフィールドなんですよね。
20年前の新潟のイメージって「米(コシヒカリ)」「日本酒」「スキー」、この3つなんですよ。両親は教育者だったけど兼業農家で米を作って、もちろん日本酒は強い、スキーはインストラクター級の腕前で、あながち間違いでもない。大学3年で東京に出てきた僕のあだ名は「新潟」だったんですよ。新潟の象徴だったんです。
新潟って言われることは嫌じゃなかったけど、東京でその連中と戦う気はさらさらなかったですね。新潟が東京よりもっともっと優れているって思っていたし、暮らしやすいところだと思っていたし、地域を東京よりずっと僕は愛していたし、それを1人ではなかなか言えないんだけど、4万人が集まって、よし!愛してるぜ、新潟!って言ったらね、ものすごく連帯感が生まれてきたんですよね。
それが、80万人しかエリアマーケットがないビッグスワンってところで、5%がくるんですよ。4万人が毎試合来る、つまり、20人に1人が来るんです。異常なほどの構図です。
これで僕たちは「4つ目の誇り」を手に入れたと思っていて、それを大切にしたいと思っているんですよ。みんなが育てたいと思っているんです。それでハマちゃったんですよね。
アルビレックスがJ1に昇格しそうになった年のアウェーの試合のときに、速報のサーバーが3試合連続でダウンしたんです。新潟のメディアに関わる人間として、僕はすごく腹がたったわけですよ。テレビでは中継するのに1試合300万円くらいかかるけど、ラジオだったら60万円くらいで済む。そこで、アウェーの残り5試合分の300万円を集めることが出来たら、独占放送してもいいよって言われたんです。電通の社内ではやめておけって言われていました。当時は誰もアルビレックス新潟が商売になるなんて思ってなかった。だから僕が全部買い切ってアルビレックス新潟のスポンサーのところへ飛び込みで行って30万円×10件を集めたんですよ。そしてラジオ中継を実現させたんです。
J1の昇格の瞬間をラジオで伝えるはずだったのが、J1の昇格が潰れた瞬間を伝えることなったんですよね。でも、スポンサーやサポーターから、アルビレックス新潟から、「いい仕事したな」って言われて。自分もメディアに関わる人間の使命だと思っていて、視聴者が本当に知りたい情報を広告主の力を借りて夢を叶えてあげるってことが本来の仕事だと思っていたから、それをかなえてあげて、みんなからありがとうって言われたんですよ。
そのときに僕の企画にのってくれたほかの代理店が持っていたスポンサーさんもいて、次からは僕のお客さんになったんですね。スポーツを通じて僕自身の売上も上がったんですよ。電通でもトップになったんです。
そこで野球になるんですよ(笑)
池田さんが2004年2月に僕を呼び出して、アルビレックス新潟というコンテンツを使ったサッカー事業を通じて新潟を活性化したのは大成功した、全国でBJリーグというのを立ち上げてバスケットボールを使って日本を元気にするというのも立ち上げ、残るは野球だ、と。
日本で最大のプロスポーツをもっと身近な存在として楽しめるビジネスモデルを作ってくれない?っていうオファーがあったんですよ。僕は、地域活性化のためのプロ野球事業っていうアプローチをすれば、会社を作るカタチだとか、スポンサーを募るカタチだとか、ファンを作るカタチっていうのは、まったく違う別のアプローチで必ず1億5千万円レベルのビジネスモデルは成立するというレポートを書いたんです。
そうしたら、池田さんが面白い、何でも手伝ってやるからお前これをやってみろって言われて、半年かかったけどやめましたね。オファーを受けてから1年後の3月に辞めました。
電通を辞めるのは悩みましたけど、自分の最後の仕事ではないなと思っていたんです。どんなことを言っても親父にはかなわないなって思っていたんですね。教師にはなれなかったけど、野球事業を通じて地域の人たちに地域貢献をすることによって、野球事業で地域に恩返しできるカタチを取れるのは僕の仕事なんだなあって思って辞められたんですよ。これだったら自分は命をかけてもいいなって思えたんで。
親父が教育者として地域に貢献をしている姿がお手本だったから、そこにどうやって近づけるだろうってことをずっと考えていたんでしょうねえ。それが野球だったら出来るって思ったんですよ。正解でしたねえ。まったく後悔してないし、年収は半分になったけど、こんなに幸せなことはないし、今はものすごく充実してますね。
Q.今の事業で一番手を差し延べている人は誰ですか?
僕が一番意識しているのは、野球少年ですね、やっぱり。地域の野球少年たちの夢をかなえてあげたいって思っています。BCリーグ憲章というのを作ったんです。BCリーグの一番トップにある判断基準っていうのが、このBCリーグ憲章にあるんですよ。
「地域の子供たちを地域とともに育てることが使命である」
「全力のプレー」
「フェアプレー」
「野球場の内外を問わず、地域と地域の子供たちの規範となる」
これがすべての判断基準で、僕たちのアイデンティティです。
これを作るきっかけになった事件があって、選手がとった行動(報復合戦)で子供たちが泣き出してしまったんです、怖いって。そして、指導者から「あなたたちの野球はもう子供たちに見せません。見せられない」と言われてしまった。それは誰が悪いかというと、リーグのトップは自分だから、僕が悪かったんですね。僕がぶれていたから、それが選手にも移ってしまった。
僕たちがなんのために野球事業をやっているんだろう、というのを時間をかけて議論して、ようやくいきついたのがこの憲章でした。
Q.ぶれていたのは何が問題だったんでしょうか?
BCリーグを作る時、理念っていうのを作らなかったんです。地域活性化とか言葉では言っていたんですが、それを明文化してなかった。それが去年BCリーグ憲章を作ったことで、骨格が出来たんですよ。絶対にぶれない僕らのアイデンティティが出来た。今までそれがなかったから、みんながあっちのほうを向いていたんですね。
それがどんなことがあってもBCリーグ憲章に戻れるんです。だから、すごくこれが強いんだと思いますね、力があるし。これが出来たら全然違う。下半身がしっかりしたっていう感じ。クライアントさんのところに言っても、この話をきっちりと出来れば理解をしてくれるし、去年から今年にかけて、スポンサーが1社も落ちなかったんです。
僕たちは企業からものすごく大切なお金を協賛として戴いて野球をさせていただいているんだから、その企業に代わって自分たちから出かけていって、社会的弱者やおじいちゃんおばあちゃん、子供たちのところへ行って、元気を与えて、そのためにお金をもらっているんだということをみんなに伝えていくんですよ。そのことに関しては、みんながすごく理解をしてくれています。
「ベースボール」に礼儀っていう概念を取り入れたのが「野球」だと僕は思っているんですよ。日本のスポーツの文化って教育の文化なんですね。地域に対してどうやって教育・貢献していくのか、そこのところでやり合うんです、僕は。
地域における子供たちの健全な育成だとか真剣にやっていきたいので、正しい取り組みだとかが必ず地域を良くしてくれる、ってことを思っているから、僕らのリーグは誰よりも礼儀を重んじるっていう意味であって欲しいし、NPB選手を志すというより結果としてそっちに行ったらいいと思う。 でも、もっともっと大切なことは、彼らがBCリーガーとしてのキャリアを終えたときに、地域で地域の企業から受け入れられる人間を作ること、そのことのほうがずっと大切だと思ってるんですよ。だって地域貢献のためのリーグなんだからね。
Q.売上構成はどうなっているんでしょうか?
リーグ運営会社としての売上は、オフィシャルスポンサー金額としてもらっている収入だとか、共同でやっているチケット販売事業の収入の一部だとか、球団がもっている売上の一部を何%かのフィーでもらうのが売上ですね。リーグとしての売上は1億円くらいです。
創業からの推移というと、資本金が1億、初年度が4000万円の赤字で、2年度が4900万円の赤字。で、初年度はリーグがまだなかったんで、7月から12月までの決算で2500万円使ったんですよ。3年目までで1億1400万円の累計赤字になって、いわゆる債務超過になったんです。2009年度、1900万円の黒字になりました。債務超過を500万円くらい脱した、という状況です。
今後も1億~1億2000万円くらいの売上で推移していくと思っています。
営業利益では、毎年2000万円ずつくらい出していければいいなあと思っています。
全体で7000~8000万円くらいがオフィシャルスポンサー収入で、2000万円くらいが球団のコミッションフィーです。
Q.BCリーグが抱える課題を率直にお伺いしたいと思います。
この地域での知名度とか価値はとても上がっていると思います。地元の新聞社とかマスコミを使って上手く経営出来ているのでいいんですけど、中央に対してのメディアの訴求力、全国に対してのコンテンツバリューというのがまだないですね。全国規模の商品価値として僕らはまだない。
だから、オフィシャルスポンサー収入を劇的に増加させるということには繋がらないです、田舎のビジネスだから。ゼロビジネスという球団の経営をモデルに乗せていければそれで勝ちなんですよ。今はそのベースが出来てきたので、そのモデルを確立するというのが一番大切ですね。
そのためには、ひとつだけ。スポンサーモデルからコンシューマーモデルへのシフトですね。ひとりの人から、もう少しだけ多くお金を出してもらおうっていうモデルが必要。
2つ目は、その人たちの層を広める、ということ。黒字化するには50人分の収入が増えればいい。飲食とかの質を上げるとかね。
Q.社会起業家を目指す読者にメッセージをお願いします。
「行き着くところまで行く、やりきること」ですね。結果が出るまでやり遂げたい。