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社会起業大学 学長の林 浩喜(はやし ひろき)です。
このROCKY通信では、僕が社会起業家の育成・支援に携わっている中での経験や僕自身の人生での学びや考えをシェアさせていただいています。
皆様の起業のお役に立てられましたら幸いです。
山口に所縁のある方であること、旧知の方の盟友であったこと、弟の伸夫さんと商社時代に同じ部門にいたこと、自宅が徒歩圏であること、近所の同じ飲食店を贔屓にしていたことなどから、心理的に最も近い首相だった。今回、あまりに唐突で素っ気無いピリオドに、まだ気持ちがついてゆけない。だから怒りよりも感謝の気持ちが先に来た。
今日は安倍さんから学ばせて頂いたことについて書きたい。それはまさにスタローンが演じた映画“ROCKYⅡ”にもつながる起伏の激しいヒューマンストーリー。地獄を見た者が復活に向けて振り絞った勇気と覚悟、そして雌伏の5年間を経て取り戻した自信と誇りだ。
最初に安倍さんを知ったのは、21世紀を迎えた直後あたりだったと思う。北朝鮮拉致問題が遅々として進まない中で、弁舌爽やかに自らの意思をTVで語るのを聞いた。強い意志と清冽な印象。この人なら本当に解決してくれるかもしれないと思わせる期待感があった。
「こんな人が政界にもいたんだ」という強いインパクトがあった。自分も起業して忙しくなりTVを見ることも極端に減り、気が付いたときには首相の座に上り詰めておられた。最初のインパクトが大きかったので、全く違和感は無かったし、この人は久々に期待できそうだと感じさせるものがあった。
しかし、その後の詳細は知らないが2007年の参院戦での自民大敗と引責辞任。会見では「私がいることが障害」とまで語った。たった1年の任期だった。バッシングは苛烈で、ひ弱だの未熟だのお坊ちゃんだの惨憺たるものだった。潰瘍性大腸炎という難病と闘い続けていたことも明らかになった。執務室で点滴を受け続けながらの日々だったそうだが、政界もメディアもそして世論からも同情は無かったように記憶している。
昨今、人は肉体の健康よりも精神の健康の方がより深刻である場合が多い。信じていた仲間には造反され、メディアには叩かれ、世論にも捨てられたと思い込んでいたようだ。誰も自分のことは信用していないとまで思い詰めていたそうだ。多分、その頃の安倍さんは鬱に近い状態だったのでは無いかと推察する。大腸炎の治療のため慶応病院に入院していた時にも、見舞客は少なかったそうだ。
その後自宅療養での塞ぎ込んだ失意の日々のなか、ある官僚の執拗な誘いに応じて高尾山に登ったそうだ。誰も自分の味方はいないと思い込んでいたどん底で、たった40分の登山も億劫だったろうが、女性登山者達から写真をせがまれる局面があったそうだ。傷心にはそんな小さな出来事が「一筋の光」となったそうだ。
そして2009年に転機が訪れる。引退覚悟で臨んだ総選挙での大勝。自らの政治デビュー以来で地元山口に張り付いての選挙活動だった。「まだ自分は求められている」と直感し、精神的に立ち直った。そして肉体的にも40年闘ってきた難病の画期的な新薬が開発されそれが奏功した。
精神を取り戻し、肉体の不安も除かれた安倍さんは開き直った。そして菅さんの口説きに肚を決めて総裁選への出馬の意向を固め勝利した。戦後、2度の首相就任という快挙を成し遂げたのは吉田茂のみだ。
首相になることが多くの政治家のゴールだとしたら、2度も首相になれたのだから成功の人生だったとも言える。人の評価は棺桶に蓋をされる時に定まるというが、安倍さんはどうなのだろうか?少なくとも日本自体がどん底の時代に唯一光を射してくれたトップでは無かっただろうか?安定感もあり、他の候補者が首相になることは想像出来ない時期もあった。晩節を汚すような諸問題もあったが、真相は闇の中となるのだろうか?
しかし政治家としての最終的な安倍さんの評価には、僕はあまり興味が無い。安倍さんを一人の人間として捉えて、僕は敬意を覚えてきた。どん底を知った人間が復活し蘇り、初回以上の活躍をするという生き様を国民に示してくれたからだ。内村鑑三の言うところの「勇ましく高尚なる生涯」つまり希望を持ち艱難に立ち向かった生き様を遺してくれたからだ。
1980年代のホワイトスネイクの“Here I go again”という名曲を思い出す。“Here I go again” そう人生はいつだって再出発出来るのだ。決して自分を諦めてはだめなのだ。
天国でごゆっくりしてください
そして世界の行く末を見守っていてください
合掌