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社会起業大学 学長の林 浩喜(はやし ひろき)です。
このROCKY通信では、僕が社会起業家の育成・支援に携わっている中での経験や僕自身の人生での学びや考えをシェアさせていただいています。
皆様の起業のお役に立てられましたら幸いです。
大正生まれの徳永初美さんは、商家に嫁いだ専業主婦だった。女学校を経て見合結婚をし、子育てをしながら習い事として料理教室に通い始めた。当時料理というものは一子相伝が常識という時代。プロの料理家に福岡県の飯塚で学び、導かれるように料理の世界に引き込まれた。そしてついにはロシア料理店のビジネスアイデアに辿り着く。
起業を考えておられる方もそうでない方も、大正女子のチャレンジスピリットを知っていただきたい。その勇気と行動力には敬服を禁じ得ない。今回は「動けばわかる」を実践された初美さんの102年に渡る人生をご紹介する。
料理教室での学びを経て、諸々のご縁もあり初美さんは当時全く日本人には縁のなかったロシア料理の道に進むことを決める。ご主人の応援も大きかった。そして初美さんはついに、当時ではあり得ないソビエト連邦行脚に向かう。
目的はロシア料理見聞と調理修行だ。横浜港から船で極東のナホトカに渡り、さらに内地ハバロフスクからあのシベリア鉄道に乗り西行する。ゴールはモスクワ、レニングラード、そしてウクライナのキエフといったヨーロッパに近い都市だ。しかしその道中訪れたのはタシケントやオデッサ、ヤルタといった諸都市も含まれ、なんと20都市以上にも及ぶ。東西距離だけでも9600キロ。これは本州の6倍以上にも相当する距離だ。
しかもソビエトは当時の最大仮想敵国。この恐怖感は今の若い人々にはいくら話しても伝わらないだろう。東西諸国はいつ核戦争が起きてもおかしくないくらいの緊張感の下にあった。初美さんはそのような情勢下、ソビエトに渡り40日間の命懸けでロシア料理修行の旅に出た。初回は1962年、それ以降10回にわたりソビエトを訪れ、全15共和国を踏破した。
2001年の初美さんによる初稿、「思ひ出の記」にそれらの旅が仔細に書かれている。ここでは割愛するが、ボルガを筆頭に雄大な大河の数々、荘厳なクレムリン宮殿、美しい水の都レニングラード、そしてもっとも美しかった街キエフ等が目に浮かぶように描写されている。
ただ残念なのは遺品整理の時に見つからなかった、初美さんの道中「旅日記」をご紹介できないことだ。それは絵日記になっていて、目にしたあらゆる地方の料理や人々の日常生活、自然風景を絵で描き残した数冊からなるものだった。高校生の頃に見せてもらい、いたく感動したのを覚えている。
当時の西側諸国からの来訪者に対する厳しい行動統制下での現地庶民との心の交流が描かれていた。白鬼のように言われていたソビエトの人々に対する恐怖感はそこには微塵もない。ところどころに管理統制の現実は垣間見えるが、それはあくまで政治の文脈だ。人々との文化交流には思いやりが溢れている。初美さんも時に共産主義や独裁国家の違和感も感じつつ、ソビエト国民とのシンパシーを感じていたことが本の随所から感じられる。
初美さんの本を読んでいて、元同一国家でもある現在のロシア・ウクライナ問題も、両国民はきっと心中では仲良くやってゆきたいと思っているはずだとあらためて思った。
初美さんから1度だけ苦労話を聞かせてもらった記憶がある。店のオープン景気が終わり、急に客足が途絶えた時のこと。そして毎夜のように美味しいボルシチを涙ながらに半分以上も流し捨てた日々のこと。
開店してから10年以上、自ら厨房に立ち続けたそうだ。そして調理だけでなく仕込みから店内掃除まで全てをこなしたと。また時間があれば、福岡県内の料理学校でロシア料理の普及にも務めたそうだ。僕の叔父(徳永哲宥氏)がレストランを承継してからは、初美さんも安心して得意の接客や広報などにも集中できたのではないだろうか。
齢90代になっても看板娘としていつも店に出ておられた。30を過ぎて起業し、努力して店を軌道に乗せられ、102歳の長寿を遂げられこの世を去られた初美さん。人生は勇気を持って行動あるのみということを実践された人生。多くの学びをくれた「第三のおばあちゃん」に心から感謝したい。
追伸
最後に涙のエピソードを。集客に苦戦していた頃、店が暇だったところにご主人が現れ一緒に近所の喫茶店に入った。ご主人の口から「お店を止めても良いぞ。お前が働いているのを見ると可哀想で」という言葉がでた。初美さんは胸を締め付けられ涙が溢れたそうだ。ご主人の優しさに心を打たれたそうだ。