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社会起業大学 学長の林 浩喜(はやし ひろき)です。
このROCKY通信では、僕が社会起業家の育成・支援に携わっている中での経験や僕自身の人生での学びや考えをシェアさせていただいています。
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パラリンピックも無事開催された。そしてアフガン選手も無事到着した。ニュースを見て、よくぞこの国難を乗り越えて来てくれた!という気持ちでいっぱいになった。開催に漕ぎ着けて本当に良かったと思う。
深夜ニュースで色々な競技を見ていて感じたことがある。なぜかオリンピックと違って、自国の選手に対する思いが薄くなっている。ナショナリズムが薄れている。帰属国とは無関係に各選手を一個人としてみてしまう。だからどこの国の選手が勝っても、あまり関係ない。極端に言えば、みんな頑張れ的な気持ちになる。個々の選手にすれば、オリンピックと同じか、あるいは出場機会が少ない分それ以上に必勝の思いがあるだろう。苛烈なトレーニングを積んで来ているだろうから、こんな甘言は失礼かもしれない。
この深層心理はなんなのだろう?と思う所詮パラリンピックだから、と競技自体に期待していないから勝敗や記録にもあまりこだわっていないのだろうか?オリンピックに比べて、迫力や息を呑むような緊張感に欠くと先入観があるのだろうか?あまり選手のことを知らないし、そもそもパラリンピック自体にあまり関心が無いのだろうか?健常者の自分が、無意識に上から目線になってしまい半分同情心みたいなもので見てしまっているのだろうか?ハンディを克服したというだけで、その属性が国家よりもプライオリティが上になるような感覚になっているのだろうか?たぶん理由は1つではないと思うが、最後の推測が一番近い気がしている。
どの国が金メダルになってもおめでとうという第三者的な感情にしかならない。現在日本と関係の好ましくない状況にある国の選手とて同じだ。国別メダル数にも全く関心が湧かない。そして優勝選手が自国のフラッグを誇らしげに身につけているのを見ても、純粋に美しいなぁという感情が湧くだけだ。
ゴールボール、全盲柔道、車椅子ラグビー、水泳、陸上等々色々な競技をニュースで見たが、何度か見ていると想像以上に迫力があることに気づく。全てのといっていいくらい参加選手は筋トレで体躯を作り上げて来ており、それだけでもどれだけ真剣に練習に臨んで来たかがわかる。よってパワーもスピードもある。
障がいの程度による選手のカテゴリー分けはまだよくわかっていないが、年齢も50歳以上のシニアも結構いてしかもメダルを取っているのが面白いし、30歳以降とか意外に競技スタートが遅い人が多いのも面白い。ラグビーなどは、男子に混じって女子がいたのも面白かった。こういった選手達が活躍できる「場」があることで、より多くの障がい者が希望を持てるし、アマチュアリズムに則り世界平和をゴールとする本来のオリンピックの姿に近いのかもしれない。見る方もオリンピックとは全く異なる楽しみ方がある。
最後に、10年以上前に感動して読んだパラリンピックの父と言われる英国のルードヴィッヒ・グットマン博士の名言を紹介したい。「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」という言葉。なんと深遠な、なんとポジティブな、なんと未来志向な。全人類に対する恒久のメッセージとして、そして僕自身へのメッセージとしても残りの人生で反芻してゆきたい。